2021年3月7日

とりわけ何もしない日でした。

ホリミヤ』というアニメをみはじめました。なんとなくみないで済ませていたのですけれど、これまたなんとなくみてみたら、案外おもしろい。一気に配信分の最新話まで消化してしまいました。素でくすっとくることが多くてたのしいと思います。

わが家に大きな冷蔵庫がやってきました。野菜室もあります。ずいぶん容量がふえて便利になりました。これで安心してつくりおきのおかずをつくっておけます。冷凍も思いのままです。

スピノザ Tractatus politicus を読みはじめました。ラテン語の基礎訓練にもちいます。それから、友人と Tractatus theologico-politicus のほうを読む予定があるので、せっかくだからこちらもあわせて読んでみようという魂胆もあります。ほんとうはオランダ語ヘブライ語も(もういちど)勉強したいのだけれど、修士論文のことを考えると息抜きのためにそこまで時間と集中力とをつかうのはよくないと思う。

2021年2月11日

ハンバーガーをたべる。とてもおいしい。甘辛いタレにお餅という組み合わせはなかなかよい。

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それからホットチョコレートもいただいた。すばらしい。つくりかたを知りたい。

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研究書を読む。キレキレでよい。わたしもこういう論文が書きたい。

おゆうはんは唐揚げだった。お味噌汁はキャベツだけを入れた。

まいにち『ノウム・オルガヌム』(1)

ラテン語は Francis Bacon, Novum Organum を。テクストは次のものを使う(以下,LL)。

http://www.thelatinlibrary.com/bacon.html

書簡

いとも明朗にしていとも力ある,われらの首長にして主人,大ブリテン,フランス,またアイルランドの王,信仰の擁護者たるジェイムズに神の恩寵あれ。

いとも明朗にしていとも力ある王よ,

陛下はわたしを窃盗のかどで糾弾することもできましたでしょう。わたしは陛下のご案件から,これら*1に足りるだけの時間を奪ったのですから。わたしは申し上げるべきことを持ちません*2。時間を元に戻すことはならないからです。陛下のご事情から引き去られた時間が,陛下の御名の銘記と陛下の御代の栄誉とに戻されうるのでもないかぎり〔そうはならないでしょう〕。〔あるとして,〕これらに何らかの値打ちがある場合に限るでしょう。けれど,これらは絶対に新しいものではございます。まったく新しいものでさえあるのです。しかし,きわめて古いモチーフ,すなわち,まさしくこの世界,それに事物と精神の自然にもとづいて記述されております。とはいえ,わたし自身はといえば,この著作を才覚の,というよりはむしろ,時代の申し子と見積もっているのです。と申しますのも,この著作は,事物のはじまりが,それから,そうしたはじまりについて蔓延る嫌疑が,あるひとの心に思い来たりえた,という点で,ひとえに驚くべきものであるからです。他のこうしたものは,不随意に出てくることはありません。しかし,偶然の産物とか何らかの巡り合わせのようなものとかが,人々の為し語ることごとにおいて劣らず,人々の思うことごとのうちにもおいてもあることは,疑いを容れません。しかるに,私のもたらすことごとのうちに何か善いものがあれば,それが神の慈愛と善性,それから陛下の御代の至福に帰される,というような次第に,この偶然の産物(私はそれについて語っているのですが)が理解されるべく,望みます。

*1:本書のことだと思われる。本書のタイトルは Novum organum sive indicia vera de interpretatione naturae であり,sive 以下に揃えるなら中性複数で受けるのも理解可能である。

*2:LL では « [n]on haveo quod dicam » となっているが,さすがに habeo だろう。Google Books でダウンロードしたあるエディションでも habeo になっていた。

まいにち「形而上学入門」

ベルクソンの「形而上学入門」を訳していく。惰性でフランス語を読まないために訳読の時間を定期的に設けるのは重要だろう。とはいえ,そんなに真面目にテクストを扱うつもりもないので,底本は Wikisource にあるもの。

[https://fr.wikisource.org/wiki/La_Pensée_et_le_mouvant/Introductionàla_métaphysique]

フランス語の知識もベルクソンの知識も甘く,誤訳等はあると思うので,親切な方がご指摘くださるとさいわいです。

形而上学入門

 形而上学のさまざまな定義と絶対的なもののさまざまな概念とを比べると気づくのは,哲学者たちは,一見してたがいに食い違っているにもかかわらず,ひとつの事物を認識する,根本的に異なるふたつのしかたを区別する点では一致をみる,ということである。第一のしかたによると,ひとはこの事物をめぐってぐるりぐるりと回っているというし,第二のしかたによると,ひとはこの事物のうちに入っているというわけだ。第一のものはひとの定位する視点や,ひとがみずからを表現する際に用いる記号に依拠する。第二のものは何らの視点もとることがなく,何らの記号にも訴えかけることがない。第一の認識についてひとは,それは相関的なものに気をとられている,というだろうし,第二の認識については,それが可能なのであれば,絶対的なものに届いている,というだろう。

 空間における対象の運動を例にとりあげよう。わたしは対象を,わたしがそれを見据える視点に応じてさまざまに,動いているとか動いていないとか知覚する。わたしは対象を,わたしがそれを関係づける際に採る軸と基準点との体系に応じて,つまり,わたしがそれを翻訳する際に用いる記号に応じて,さまざまに表現する。それでわたしは対象を上述ふたつの理由から相関的と呼ぶ。いずれの場合においても,わたしは対象そのものの外側に定位しているわけだ。わたしが絶対運動について語るとき,わたしは動くものに内的なものを帰属させているのであり,心の状態のように*1,想像力を懸命にはたらかせることで,[対象の]状態に共感し,そのうちにみずからを置き入れている。それゆえ,対象が動くか動かないかに応じて,また対象がある運動を受け入れるか別の運動を受け入れるかに応じて,わたしは同じ事物を経験することがないだろう。それに,わたしが体験するものは,わたしが対象のうちにあるのだから,わたしが対象について採択することのできる視点にも依拠しないだろうし,わたしはすべての翻訳をすててオリジナルを手にしているのだから,わたしが対象を翻訳することを可能にする記号にも依拠しないだろう。要するに,運動はもはや外側からとか,何らかのしかたでわたしの側からではなく,内側から,それにおいて,それ自体において,把握されるだろう。わたしは絶対的なものをつかむだろう。

 今度は,私にその椿事の語り聞かされている小説の登場人物をとりあげよう。小説家は性格上の特徴を重ねてゆき,その主人公をじぶんに気にいるだけ喋らせ振舞わせることができる。これをすべて併せたところで,かりに私が一瞬登場人物そのひととひとりになってしまうなら,そのとき私が体験するだろう,一回きりで独特の感情に替わることはないだろう。そのとき,あたかも源泉からこんこんと湧き出るかのように*2,私にはおのずと,彼の行い,身振り手振り,物言いが浮かんでくるのだ。これはもはや偶発事*3ではなく,私がその登場人物について抱く観念に付け加わったり,この観念を補うには決して至らないまでも豊かにしたりすることはないだろう。その登場人物は私に一挙にそのひとのまるごとのままで与えられ,彼を明らかにする数々の出来事*4は,その観念に付け加わったりその観念を豊かにしたりすることないく,反対に,そのときは,その観念から離れていき,それでいてしかし,その観念の本質を汲み尽くしたり,貧しくしたりする*5ことはないように,私には思われるだろう。その人物について私が語り聞かされていることはどれもこれも,私にその人物をみる視点を与えてくれる。そうした特徴はどれもこれも,私にその人物のことを描写するし,それにより,私がすでに認識している人物や事物とのいちいちの比較を通じてはじめて,私はその人物のことを認識できるのだが,そうした特徴はその人物が記号的に表現される際に用いられるしるしである*6。かくて,記号や視点によって私はその人物の外側に置かれてしまうのだ。記号や視点がその人物について私に明かしてくれるものはといえば,その人物にも他の人物にも共通しており,その人物に固有に属するわけではないものでしかない。たほう,固有にその人物であるところのもの,その人物の本質を構成するものは,定義上内的なのであって,その人物の外側で外側で気づかれるわけにはゆかないし,他のいかなる事物とも共通の尺度を持たないのであって,記号によって表現されるわけにもゆかない。記述や歴史,分析によって,私は相関的なもののうちに留め置かれてしまう。ひとえに,その人物そのひととひとりになることだけが,私に絶対的なものを与えてくれるのだ。

 この意味で,そしてこの意味でのみ,絶対的とは完全性の同義語になる。街の写真は,可能な視点のいずれから撮られようが,いずれの写真も互いに果てなく補い合ったところで無駄なことで,ひとの歩き回っている街であるところのこの立体的なモデル*7には到底及ぶまい。ひとつの詩の翻訳は,可能な言語のいずれに移されようと,いずれの翻訳も,細かな手直しを幾重にも加え,ある種の相互修正によって正確さを増すことでみずからの翻訳している詩の似姿をいよいよ精緻にしたところで無駄なのであって,決して原文の内的な意味を取り戻しはしまい。特定の視点から捉えられた再現,特定の記号でなされる翻訳は,当の視点が捉えた対象,当の記号が表現しようとする対象と比べると,つねに不完全なものにとどまる。これに対し,絶対的なものは,それが完全なしかたでそれがそれであるところのものである点で,完全なのだ。

 絶対的なものと無限なものとがしばしば重ねて同一視されるのも同じ理由によることは疑いない。私が,ギリシア語を解さないひとに向けて,ホメロスの一行が私に残す一回ぎりの印象を伝えたいとすると,その一行の訳文を提示し,次いで私の訳文に註釈をつけ,次いで私の註釈を展開し,説明に説明を重ねて私が表現したいことにだんだん近づいていくだろう。しかし,決してそこに辿り着くことはないだろう。

*1:この一文は原文では « [q]uand je parle d’un mouvement absolu, c’est que j’attribue au mobile un intérieur et comme des états d’âme, c’est aussi que je sympathise avec les états et que je m’insère en eux par un effort d’imagination. » 主節は intérieur et comme の et の前後で切れると思うのだが,comme des états d’âme をどう読めばいいのかはっきりわからない。一応,que je sympathise 以下に組み入れて読んだが,飛び出しているにしてもなぜこういう形式をとるのかわからない。

*2:原文は « comme de source .» 訳しすぎかもしれないが,こういう感じだろうとは思う。

*3:原語 accidents. 後に出てくる essence との対比が効いていると思われる。

*4:原語 incidents. 前出 accidents に引っ掛けた言葉遣いであろう。文脈もそれに沿っている。

*5:原文 « en épuiser et en appauvrir l'essence .» en を de l'idee でとる。近世哲学徒からすると,観念の本質とはなんぞ,という感じだけれど,ここではそう取るしかないだろう。

*6:原文 « [t]out ce qu’on me raconte de la personne me fournit autant de points de vue sur elle. Tous les traits qui me la décrivent, et qui ne peuvent me la faire connaître que par autant de comparaisons avec des personnes ou des choses que je connais déjà, sont des signes par lesquels on l’exprime plus ou moins symboliquement. » 全体的に訳しづらく,特にふたつめの関係代名詞節が訳しにくい。もっと上手い処理の仕方があれば・思いついたら教えていただきたい。

*7:原文 « cet exemplaire en relief .» 正直よくわからない。

Août 2019

8/7

日記

  • 1時ごろ起きる。寝ていたことにより,ひととの通話の約束を反故にしてしまう。ふたたびすぐ寝る。
  • 6時ごろふたたび起きる。
  • 酪王カフェオレをのむ。おいしい。
  • 朝食の時間は忘れた。オムレツをつくるが,しっぱい。
  • 9時ごろおふろちゃぷん。
  • 12時ごろおひる。
  • 13時ごろから,映画館でトイ・ストーリーの新作をみる。
  • 16時ごろ,おやつにケーキとシュークリームをたべる。
  • 20時ごろ,夕食に母親の焼いたピザをたべる。
  • 21時半ごろ,寝落ち。

勉強

  • イタリア語の勉強をすこし進める。

体調

  • おくすりの副作用のせいか,夜遅いとねむい。ふだんから素直にねむくなってしまうほうなので,関係ないかも。
  • 乾いた咳以外の症状(とくに痰)が出ているが,これは先日の内科で処方されたおくすり(のうちのひとつ)の効能にすぎないかもしれない。

8/11

かなり日記をさぼった。継続しないと。

  • 6時ごろ起きる。
  • フランス語を訳したりラテン語を訳したり。

Juillet 2019

7/9

  • だいぶ更新をサボった。
  • 7:30 くらいにひとの家で起きる。
  • 朝食にナポリタンをつくる。量が多かったかわからない。あと味薄かったかも。
  • 授業に出るために電車でガタゴト、けっこう遅刻した。
  • 調理器具店数軒を行き来して、深型バットと蓋のセットを比較的安く買う。うれしい。
  • 角煮つくる、めんどくさい。けっきょくかなり時間かかった。圧力鍋を買う決意を固めた。さっそくバットに入れて冷蔵庫ゆき。

Juin 2019

6/25

  • 日記を書き始める。
  • 今朝は気分がよくないので諸々休んで静養することにした。勉強くらいならできるだろうか。
  • とりあえずお買い物。おさかなは高い。
  • お夕飯は鯖味噌と卵焼き。鯖味噌はすこしお酢がきつかったかもしれない。
  • あまりがんばれなかったけれど、とりあえず秋保亘『スピノザ:力の存在論生の哲学』序論、第 1 章を読んだ。テクストの捌き方も叙述も丁寧かつ明晰で、註も勉強になった。

6/26

  • 4:30 ごろ起きる。
  • 朝から食器を一枚わってしまう。使いやすくておきにいりのやつなのでかなしい。同じものがもう一枚あること、高いものではないこと、手に入れようと思えば簡単に入手可能なこと、ケガしなかったこと、これらは不幸中のさいわい。
  • 気になっていた無印のシリコンスクレーパーを買う。すぐれている。もっとはやく買うべきだった。
  • 鰤あらの煮つけをつくる。冷蔵庫にしまって、食べるとしたら今日の夜以降。にこごりがたのしみ。
  • 近くの本屋で杉山直樹訳『物質と記憶』を購入。ベルクソン流行ってるみたい。杉山本も買って積んだまま。読まないといけない。
  • 帰りしな、遅めのお昼にラーメンをたべる。安いけどおいしかった。リピートするかも。
  • ラタトゥイユをはじめてつくる。テキトーなので、オレガノを振ってローリエを敷いてみる。タイムは手許にないのでまた今度。お夕飯に半分ほどいただく。はじめてにしてはよくできたほうかもしれない。混ぜるのが面倒なので放っていたら鍋底がすこしこげた。トマト料理はいつもこう。
  • ラタトゥイユがぐつぐつとしているあいだ、買ってきたベルクソンをよんでいた。「第七版への序文」にはすこし見憶えがある。ちょうど次に引く箇所を授業で読んだことがあるのを思い出す。教員はイマージュという概念が大のお気に入りらしく、この話のときはにこにこしながらかなり楽しそうにしていた気がする。

    La matière, pour nous, est un ensemble d’« images ». Et par « image » nous entendons une certaine existence qui est plus que ce que l’idéaliste appelle une représentation, mais moins que ce que le réaliste appelle une chose, — une existence située à mi-chemin entre la « chose » et la « représentation ». Cette conception de la matière est tout simplement celle du sens commun. On étonnerait beaucoup un homme étranger aux spéculations philosophiques en lui disant que l’objet qu’il a devant lui, qu’il voit et qu’il touche, n’existe que dans son esprit et pour son esprit, ou même, plus généralement, n’existe que pour un esprit, comme le voulait Berkeley. Notre interlocuteur soutiendrait toujours que l’objet existe indépendamment de la conscience qui le perçoit. Mais, d’autre part, nous étonnerions autant cet interlocuteur en lui disant que l’objet est tout différent de ce qu’on y aperçoit, qu’il n’a ni la couleur que l’œil lui prête, ni la résistance que la main y trouve. Cette couleur et cette résistance sont, pour lui, dans l’objet : ce ne sont pas des états de notre esprit, ce sont les éléments constitutifs d’une existence indépendante de la nôtre. Donc, pour le sens commun, l’objet existe en lui-même et, d’autre part, l’objet est, en lui-même, pittoresque comme nous l’apercevons : c’est une image, mais une image qui existe en soi.
    Bergson, Matière et mémoire, Avant-propos. Wikisource より引用。

  • ラタトゥイユに鮭のムニエルを追加でつくってごはん。ムニエルのつけあわせにはホワイトマッシュルームを選ぶ。けっこうよい。
  • 線型代数の勉強をしてねる。

6/27

  • 5:00 起床。
  • 線型代数の勉強をする。
  • 朝ごはんとお昼ごはんを兼ねて、鮭のムニエル。今日はおしょうゆ味。昔に比べると、塩胡椒のソースのほうが好きかもしれないな、と思う。
  • お洗濯をして、乾燥機にかけにコインランドリーへ。300 円で全部乾く。安い。梅雨でもこれがあれば何ともないかもしれない。
  • Apple Pencil をなくす。多分家のなかのどこかにある。変なところに置いたのだと思う。じぶんが嫌になる。散らかっていてわからない。普段これでノートテイクしているので結構焦る。どこかにはあるはずだけど、すぐに見つかる保証もないので、それで作業能率下がっても仕方ないから、安めのスタイラスを買ってみる。明日には届くそう、嬉しい。でも、見つかるといいなあ、高いもの。買い直すなら第二世代以降と思ってるし、それには iPad ごと換えないとならないから、今買い換えるわけにもいかない。
  • 大学で線型代数の勉強会。はじめての担当なのでけっこう緊張する。でもけっこう楽しい。またやりたい。
  • 続いてフランス語の読書会。ドイツ語選択者のひとにきちんと解説するのにドイツ語の癖みたいなのを知っているといいのだけど、しょこらのドイツ語力ではなかなかそうもゆかない。接続法や条件法のあたりはそういう感じで説明できるのが最終的には望ましいと思うので、頑張る。
  • 帰りにメンバーでサイゼリヤごはん。しょこらはカルボナーラを食べる。

6/28

  • 二度寝、三度寝して、けっきょく 6 時ごろ起床。
  • ゼミへ。担当者によるサブテクストの扱い方についてもう少し申し添えるべきことがあったのだけど、あまり出しゃばりすぎるのもなあ、と思って発言を控えてしまう。でも、ゼミの議論を締りのあるものにするには必要だったかもしれない。よくわからない。反省。
  • いったん帰宅し、届いたスタイラスペンの動作確認。商品説明よりもだいぶ悪い。あまりに使いものにならないので、すぐに返品の手続きを踏む。こうなってはもう必死の思いで部屋を片付けてどうにか Apple Pencil を発掘する。よかった。やっぱり純正品ははるかに有能。
  • 電車で移動しながら微分積分のお勉強。ステートメントを論理的なかたちになおすみたいなのはまだまだ訓練が足りない。あと、添字の扱いみたいなのにまだあまり習熟していない気がする。
  • 焼き鳥を食べる。ももと鳥はつ、どちらも塩。おいしい。安い。
  • オムライスもぐもぐ。うめー。
  • おふろ入ってねる。おやすみ。

6/29

  • 7:30 ごろ起きる。
  • 朝はギリシア語。もっとすらすら読めるようになりたいもの。
  • 八百屋さんにお買いもの。値段はまちまち。おまけしてもらう。うれしい。でも、パプリカはスーパーのほうが安かった。そういうこともある。
  • お昼は餃子。その前におなかすいてたので小腹を満たすようなものをたべる。それはともかく、冷凍餃子はレベル高いなあ。
  • ラタトゥイユつくる。2 回目。汁気飛ばすのがなかなかむずかしい。
  • ギリシア語。
  • 勉強して寝落ち。